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2016年11月13日 (日)

因島水軍城まつり

Dscf0434111月13日(日)10時~15時で尾道市因島中庄町の因島水軍城で”因島水軍まつり”が行われました。近所なので、どの様な行事が行われているか駆け足で少し見てきました。写真は水軍城入口から本丸を見上げた所で、この入り口は村上水軍の菩提寺である金蓮寺の正門の横に有ります。
村上海賊船奉納行事が行われる10時に行ったので写真中央に見えてる御門で地元の宮司さんによる神事が行われていました。

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門の向こうで海賊船に祭段が祭られ神事が行われています。

_dsc00741 村上海賊に伝わる軍船を水軍城まで笛・ホラ貝や太鼓の音に合わせ運び上げる行事です。
一気に担ぎ上げる事はせず神輿の宮入の様にユックリと進みます。途中2度ほどお祈りを交えながら本丸を目指します。

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本丸の入口

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本丸の周りでは”村上海賊になろう!”と言う事で甲冑を着て写真撮影が出来ます。

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はっさくんネイル”と”海賊キーホルダーを作ろう!”もありました。

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他には”村上海賊グッズ販売”や日本遺産パネル展”もありました。

本丸の左には二の丸が有り今回は長テーブルが置かれ”とのさまお茶会”の会場に成っていました。はっさく大福とお茶のセットで200円です。

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定番の顔抜きパネルも有ります!。本丸の資料館内の展示物案内。

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水軍の由来がパネルで説明されています。写真では見え難いので下に書き起こしました。( )内は補足加筆してます。

Dscf04521 南北朝時代およそ今から650年前、南朝方の天皇である長慶天皇の命により信濃国から村上師清(もろきよ)が瀬戸内に入りました。この師清は、北畠親房の孫で北畠顕成という人物ですが、村上氏の家督を継ぐことで、村上師清と改名しました。

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天授三年(1377年)村上師清は建武の新政後、空白をついて因島を支配していた北朝方の今岡通任を因島土生町の釣島(現在の鶴島)・箱崎の戦いで破り、因島を手に入れます。  因島の周囲は、およそ三十五キロメートルです。島の近くを航行する船を監視し、臨戦態勢に備えるため、二十四の城を築きました。

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村上師清には三人の男子があり、それぞれ三つの島に分立させました。長男義顕を能島、二男顕忠を来島、そして三男顕長を因島に配置しました。  ここに同門意識による統合によって、後世に知られる能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の村上三家が生まれました。

Dscf04561因島村上氏の初代当主顕長は又三郎吉豊ともいわれています。永享六年(1434年)室町幕府から海の治安を命じられ制海権を命じられ制海権を与えられました。制海権とは、海上に関所を設けて、航行する船から税金を徴集するというもので、この手続きを無視した場合は、沿岸各所からホラ貝や陣太鼓が鳴り響き、村上水軍の船の群れが波しぶきをあげて突進し、ひとり残らず討ち取るとともにその積荷をすべて奪い去っていくという激しいものでした。

Dscf04551 海外貿易も盛んにおこなわれ、朝鮮や中国、遠くは東南アジアまで赴き、海賊というよりは瀬戸内海の海上交通の支配者、そして海外貿易の商人という側面をもっていました。 この当時の石高は、十一万四千五百石にものぼりました。 こうした国内外の貿易と当時の支配階級との関係により、権力と地位を不動のものにしました。国内では水軍として厳島(宮島)の合戦(当初、因島村上が毛利軍に加勢し大内軍と対峙していたが多勢に無勢で太刀打ち出来る状況で無かったが後に能島・来島村上水軍が加勢して状況が一変したと言う)や大阪湾木津川河口の戦い(織田水軍対村上水軍)など幾多の合戦に参加し、歴史を動かす大きな原動力となりました。

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